スポンサーサイト

この広告は60日以上更新がないブログに表示されております。
新しい記事を書くことで広告を消すことができます。
  • -
  • -
  • -

不自由。



 生きているということは、不自由だ。
不自由さを選択して、ここにいる。


特に不自由なのは、人の心。
妄想による束縛。

自らを妄想による束縛から解放して、改めて自らを束縛するものを選択する。
それができたほうが、多分、幸せだ。

そのためにはまず、自らの宿命を知らなくちゃいけない。
宿命とは、自らが生きる世界の法則。
自らの選択とは別に在り続けるもの。

人の意識が関係性から浮かび上がった、仮初であるということ。
言葉の始まりと共にある妄想。


社会性動物としての、つながりの希求。
脳の生理。
身体の生理。
そもそも境界のない、脳と身体。
私と世界。

生態系。
生命のつながり。
化学の法則。
物理の法則。
天体の運行。

全ては境界のないもの。
しかし、境界を引くことで、現れる世界。
一種の魔法。


人の妄想は、力だ。
しかし、妄想であることを知らず縛られれば、それは苦しみだ。
選択する力を失い、ただ生の中に沈む。

人は妄想から開放されたほうが、より幸せになれる。
ただし、開放されるだけではいけない。
自らを取り巻く法則を選び取り、世界を再構築する必要がある。

そのためには、選択できるだけの知識が必要だ。
それ以上に、経験が必要だ。
それは、今、この瞬間に考えず、ただ動くこと。
その積み重ね。


知識はコンパスだ。
方向が決まれば、一歩踏み出すのにコンパスは要らない。
考える必要もない。

目で見て、
足を感じて、
一歩踏み出して、
それを感じればいい。

その意味を考える必要もない。
でも、考えたければ、考えてもいい。

ある程度重ねたところで、コンパスを見て、考えればいい。
新しいコンパスを探して、取り替えてもいい。


古い妄想と束縛を捨て、新しい妄想と束縛を得る。
そうして世界を更新しながら、経験を重ねればいい。



人は不自由だ。
身体に縛られる。
だから、一歩を踏み出せる。

人は不自由だ。
意識に縛られる。
妄想は身体の一歩すら、束縛する。

人は不自由であるがゆえに、
それを知ることで、
自らの進む方向を選択できる。

他の何者よりも、自らの決めた方向へ進むことができる。


そのことに意味があるわけでもないが、
不思議で面白い。





余白。

 人生に余白は必要だ。


余白のない人生を求めて、
空白だらけの人生を送ってきた。


これからは余白のある人生を求めて、
きちんと余白のある人生を送りたい。






ふとよぎる雑想。


 ふと考える。

生命の始まり。

ある物質が、他のある物質の生まれることを助ける作用。
酵素触媒。

酵素触媒が連なり、やがて円環となる。
初めに戻り、自らに返る。
ウロボロスの輪。

円環は繰り返される。
円環は増え続け、原始の潮溜まりは円環で満ちる。

複製を繰り返す円環は、いくつもの種類が生まれてくる。
そしてそのなかで、より良く複製することに成功した仕組み。
RNA。

そこから派生して、その仕組みをより複雑に止揚したもの。
情報を安定的に未来に残すことに成功したもの。
DNA。

そして、安定して酵素触媒を続けていくための、ゆりかご。
生体膜。

原始的な生命のパーツたち。

より複雑に発展し、核を作っていったもの。
効率的なエネルギー源であるATPを作ることに成功した、ミトコンドリア。
それらが協力して、一体となる。
そうして止揚していったものが、単細胞生物となった。
植物はそこからさらに、原始の葉緑体と協力して、一体となる。

今度は単細胞生物同士の協力が始まる。
多細胞生物。
細胞同士がよりよく助け合い、与え合ったものが残る。
そんな競争。

さまざまな多細胞生物が生まれ、複雑化していく。
やがて脊椎動物が生まれ、魚類、爬虫類、鳥類、哺乳類が生まれる。
いろんな生命が生まれ、多様化してゆく。

競争しあっているようで、どれか1種に占有されることはない。
占有された系は、滅びる。
存在することが、できない。
滅びないために、食べたり、食べられたりする。

円環。
いや、複雑な網目模様。
無秩序なようで、美しく繰り返す秩序。
オーケストラ。

全ての生命が、他から自らの全てを得、他へ自らの全てを捧げる。

生命の根本は存在し、残り続けることにある。
より存在し続けるために、変化し続ける。
そうして、酵素反応は生まれた。

酵素反応は、自分自身以外の存在を生み出すための作用。
そもそもは見返りのない、一方的な働き。
すなわち、愛だ。

生命はその始まりから愛がある。
より大きく、複雑なものほど、助け合い、止揚した結果、生まれてくる。
そして、複雑なものも、単純なものも、互いに繋がっている。
差異なく、ただ、繋がっている。

そして、人間もその一部だ。
ただし、人間は他から特に多くのものを与えられている。
だから、危うい。

我々はそれを省みない。
自らの危うさと可能性を知らず、驕り、貪る。
それもおそらく、間違いではない。

ただ、我々が他から奪い、与えず、占有すれば、滅びる。
そういう仕組みだ。

非常にシンプル。
それだけのことだ。





間違って読んだ人、ごめんなさい。



悪人。

吉田修一さんの小説が文庫になったので、早速買って読んだ。
構成は上下巻、各巻3章ずつ。
来年には映画になるみたい。

一日一章ずつ読めば丁度良いかな、と思って読んでいたが、
上巻の3章から止まらなくなり、一気読み。
相変わらず、期待を裏切らない。
すごい。
特筆すべきはその構成力。
そして、平易な文章を使っているにもかかわらず、描き出される情景が生々しいということ。
その表現力だ。
その力量をもって描く人物も、いちいち心を抉ってくる。
しかし、個人的には最後、居心地の悪さがあった。
後で少し述べたい。

吉田さんの小説に出てくる人物というのは、みんな非常に人間くさい。
生々しい。
手放しで立派な人物なんてのは、一人もいない。
しかし、美しさの片鱗を持っている。
わたしは、それぞれがそれぞれに、必死でそれを咲かせようとしているように思えた。
最後に、主人公がその美しさの片鱗を咲かせる。
わたしにはそう思えた。
しかし、わたしにはそれが悲しく、苦しかった。


突然だが、安岡正篤氏が「据物の心得」について語った言葉がある。


  据物の心得

 「据物の心得」という工夫がある。
 剣によって類稀なる荘厳自由な
 人格を錬り上げた宮本武蔵に、
 一見してその非凡の人物を見抜かれた
 熊本藩の英霊漢都甲太兵衛(とごうたへえ)が、
 太守から日頃覚悟の筋をきかれた時、
 彼はしばらく小首を傾けていたが、
 やがておもむろに口を開いて
 ――自分は据物の心得ということにふと心づいて、
 それからいつも人は据物でいつでも打たれるものであると思い、
 それを平気で打たれる心持ちになるように力めた。

 もちろん、はじめのうちは
 ともすれば「据物である」ということを忘れ、
 またそう思ってみても恐ろしくてならなかったが、
 段々工夫してゆくうちに、
 いつも据物の心になって、それで何ともなくなった
 ――と答えた。
 日本におけるあらゆる芸道は、
 いずれもこの心境の上に創造されているのである。


という内容。
ちなみに、据物は
 
 罪人の死体などを土壇(どだん)に据えること。
 また、据えた死体。刀剣の試し斬りにされた。

というもの。



人は愛するもののためになら、自ら「据物」になれるのか。
報われるとか、損得とか、そういうものを超えられるのか。

わたしは、報われたい。
まだ、据物にはなれない。
というか、据物となって、自ら刃を受け入れることのできる人間。
そんな人間は、果たしているのだろうか。



そうか、そうじゃない。
主人公は、十分に報われていたんだ。
報われなかったがゆえに、殺人は起こり、
報われたがゆえに、据物となれた。

それでもやっぱり、もやもやは残る。
歯車のずれ。
新しい歯車との出会い。
いろんなことがある。

最近はいろいろなことが分かってきたような気がする。
頭では。
それでも、わたしはまだ、この世界から善意よりも多くの、悪意を感じる。
多分、汚れているのは、わたしという鏡だ。
上手に組織分化できずに、戸惑っている一つの細胞。
多分、発現すべき情報は、もっと少なく、シンプルなものなのかもしれない。





油。

 油、恐るべし。
プレジデント・ファミリーって雑誌の今月号を読んでいて、目からうろこ。
正直、油って自分の中でタンパクや糖からすると、ちょっと甘く見ていたところがある。

タンパクについては体の最も基礎となる物質というイメージがあり、特に神経伝達物質の材料にもなるってところが個人的に重視するポイントだった。 タンパクの摂取において大事なことは、特定のアミノ酸に偏った吸収を避ける必要性があるところ。吸収の場面でアミノ酸同士の競合が起こるんだと。よって、 サプリメントでアミノ酸を摂取しようなんてのは、もちろんNG。あと、貯蔵できないので(糖や脂肪に変換されてしまう)、恒常的な摂取が必要というとこ ろ。

糖については安定した生活を送るためには、急激な血糖値の変化を避けるべきであるということ。白砂糖の大量摂取なんてすれば、ジェットコースター にでも乗ったように血糖値は乱高下。身体にも精神にも影響ないわけない。行く先は糖尿病→各種成人病のコンボ。血糖値の上昇が緩やかな低GI食品がもては やされているのは、その辺の事情から。
でも、程々の量のスイーツは個人的嗜好から食べたいよね。

まあ、その辺は一般的にも良く知られるようになってきた感がある。
しかし、以外と見落とされがちなのは、油=脂肪酸+グリセリンについて。
というか、自分が気がついてなかっただけ?

いきなりポイントから入ると、重要な点は脂肪酸というのが、細胞膜の材料であるということ。
脂肪酸は細胞表面を覆う物質で、その特性が細胞内外へ物質をやり取りする場合に大きく影響する。すなわち、脂肪酸は細胞表面をスムーズに動く柔ら かい物であることが望ましい。それがいわゆる、不飽和脂肪酸っていわれてるもの。植物性の脂肪に多い。反対に固いのが飽和脂肪酸。動物性の脂肪に多い。

油が固い、柔らかいって何?って思うかもしれないが、イメージするのは簡単だ。温度が下がったときに固まるか、固まらないか、それで雑駁にイメー ジできる。例えば、マーガリンとバターを比べた場合、バターは温度を上げないとなかなか溶けない。植物油とラードを比べた場合、ラードは低温にすると固 まってきてしまう。かなりいい加減だが、そのイメージを自分自身の細胞に適用すればいいんじゃないかな?

細胞膜の表面にはその時々で様々な物質の受容体が顔を出したり、引っ込んだりするんで、代謝の面でもスムーズに脂肪酸の間を漂える状態であること が理想的。今回雑誌を読んでいて特になるほど!と思ったのが、神経細胞のシナプスにおける受容体のくだり。要は、神経細胞表面の脂肪酸の種類によって受容 体のパフォーマンスが変化するってこと。えっと、神経細胞間の情報のやり取りってのは、ある神経細胞から放出された神経伝達物質を他方の神経細胞が先の受 容体を通して受け取る事によって行われる。その過程がスムーズになるということ。リアクションが速くなり、引きずることが少なくなるのかな?その結果、精 神的な活動に大きな影響があるんだと。さらには、消化器系に神経細胞は多く存在してるので、消化器系にも影響あるんじゃないかな?これは勝手な推測です。

ちなみに不飽和脂肪酸にはオメガ3、オメガ6、オメガ9とあって、3と6が人体内で合成できない必須脂肪酸らしい。9はオリーブ油、菜種油、ヒマ ワリ油とかのオレイン酸とか。6は大豆油とか、菜種油とか、ゴマ油とかのリノール酸とか。3はクルミ油とか、アマニ油とか、エゴマ油とかのαリノレン酸、 青魚のDHAとか。海の魚の油は冷たい環境で生きていくために、低温でもさらさらじゃなきゃいけないんだと。DHAすげー!
つーか、DHAが脂肪酸って知らなかった・・・。



ジェットコースター。

 つい先日、恵那ワンダーランドに行った。
ややB級の遊園地。
そこのキャメルコースターというジェットコースターに乗った。
ややB級のジェットコースター。
しかし、紛うことなきジェットコースターである。
徐々に登りつめてゆき、平行の状態を迎える。
そして、落下してゆく。
久々の体験。

「宮本から君へ」がまだ頭に残っている。
真淵拓馬の登場。
それが物語において、遅れてきた平衡状態だったのかもしれない。
私の中で物語が真に展開するのは、そこからだ。
ある生々しさを伴った、悪夢。
落ちてゆく力の荒々しさ。
せめぎ合い。
宮本が到達した地点。
その先に拡がった、「ザ・ワールド・イズ・マイン」の世界。

 「人は
  感動するために
  生きてっからよ」

交錯するコースターの軌道。
飛び散る火花。
無軌道に飛び回るものたち。
堕ちてゆく浮遊感。
束の間の自由。
狭間にある感動。
妄想と狂気。

そうだなぁ。
実感ないけど、終わりがある。
求めていたこと。
時の前に、流れの前に、あまりに脆い。

変な感じだなぁ。





宮本から君へ。

 「宮本から君へ」は新井英樹氏の漫画。
新井英樹氏は「ザ・ワールド・イズ・マイン」を読んで知った。
「ザ・ワールド・イズ・マイン」も大概、ものすげぇな、と思っていた。
劇薬であって、安直に他人には薦められない類のもの。

「宮本から君へ」は自分にとって、もっともの凄い。
定本の帯に書かれた‘バブル期の日本で最も嫌われたマンガ’というのは、伊達ではない。
それにもかかわらず、1992年度小学館漫画賞受賞。

今日、一気に読んだ。

不快感、高揚感・・・グラグラする様な気持ちの悪さがあって、途中で読むのが苦しくなった。
それでも、読むのを止められない。
特に、定本の3巻以降は追いたてられるように、読まずにはいられなかった。
これほど読むのが苦しいのに、読み進めずにはいられなかった漫画は初めてだ。
結局、ジェットコースターのように通り過ぎていった。
正直いって、暫く読み返したくない。
ただ、間違いなく、再び読み返すことがあるのだろうと思う。

読み進める中で自己嫌悪の感情が芽生えて来る瞬間があった。
その自己嫌悪に浸りそうになる自分を指摘され、見せつけられて、さらに不快感を感じさせられるような、そんな感覚が通り過ぎていく。
感動、怒涛、衝撃のドブ水みたいな感じ。
粋とかスマートさの対極にあるように思った。
まだ、なんだかぐらぐらする。
気持ちが悪い。

それでも、間違いなく読んで良かった、出合えて良かった漫画だと思う。
宮本を見ていると、そこまで苦しまなくていいだろう、それは不要な妄想だろう、などと思ったりする。
しかし、宮本は生きる限り、七転八倒し続ける。
いや、七転び八起きか。
宮本は「人」の生を見せつけてくる。
その混沌と苦しみ、そしてその向こう側の可能性を垣間見せてくれる。
いや・・・可能性というよりは、その異様さ、名状し難さかもしれない。

自分は宮本の様には生きれない。
チンケな人間だ。
しかしだからこそ、また宮本とは違った、自分なりの人生を描けたらと思う。
さて、どうだかなぁ。


で、作者はエレカシのファンらしい。
どーりで「宮本」か。




ありあまる富。

 今日は早起きして選挙に行って、掃除しました。

すっきりして気分良くなったところで、椎名林檎の『性的ヒーリング〜其ノ四〜』を鑑賞。
新しいアルバムを聞きまくっていて、テンションが上がっているところなので、かなりイイ!
ちなみに、新しいアルバムの中では「旬」が特にお気に入り。

で、その中でアルバムには入っていないんだけど、シングルで出ていた「ありあまる富」が入っていた。
実はまだなんとなくしか聞いていなかったこの曲。
そんな好きな曲じゃないかなー、なんて思っていました。
しかし、PVを見ていきなり衝撃を受けた。

・・・すごい。
鳥肌が立ちました。
映像と合わせることで、林檎さんの感じていたことの片鱗を垣間見た気持ちになりました。


陽光にきらめきながら落ちていく諸々。
生命の一回性。
壊れていくものに対する嘆きではなくて、
ありのままを味わい、慈しむ想い。


林檎さんは以前、美しいものが壊れていくこと、信じるものが移ろってゆくことに対する
嘆きや悲しみを歌っていたような気がします。
最近で(といっても、大分古いのだけど)印象的だったのは、東京事変の「落日」。

 「丁度太陽が去っただけだろう・・・」

ライブのときに初めて聴いたんですが、この歌詞と曲と歌声にガツンとやられました。
ええ、ガツンと。
これがシングルのカップリングに入ってる曲だってのが衝撃だよ・・・。
まぁ、そんなことはさておき、よく見直してみると、このとき既に今の方向へ向かう片鱗があるように思います。

今回のアルバムの中心に据えられている「旬」にも瞬間瞬間の生命の輝きを見出そうとする意志のようなものを感じます。

 「生きているうちはずっと旬だと
  そう裏付けて
  充たして
  いまを感じて覚えて何時もより
  生きて、生きて、生きて居よう」


そんなとこで、「ありあまる富」に戻ってみる。

 「何故なら価値は生命に従って付いてる」

生命は落ちてゆくもの。
衰えてゆくものだ。
それでも、その堕ちて、壊れてゆくまでの間、束の間の光を放つ。
陽光を反射して、きらめく。

普通の生き物は、自分や身の周りの大切なものが壊れてゆくであろうことに、気付くことはない。
ただ、人はそれに気付いてしまう。
そして、嘆き、悲しむ。

ただ、普通の生き物は、自身の生命の輝きに気付くこともないのではないだろうか。
きっと、人だけが自分や自分の大切なものが、一瞬でも輝いたことを識ることができる。
そして、自分以外の誰かにそれを欠片でも伝えて、共有することができる。

そんな感覚なのだろうか。


林檎さんは子供を産んだ。
子供を産んだ女性はすごく変わる気がする。
生命の輝きや、尊さを肌で感じるようになるのかな、と思う。
わたしには、分からない。


生命はその生まれから、滅びを孕んでいる。
だから、繋がってゆくことができる。
輝くことができる。


わたしには言葉遊びしか出来ない。
でも、林檎さんはそれを肌で感じて、表現できているんじゃないかなぁ、と思う。
いや、林檎さんに限らず、女性が子供を産み、育てるということが、そういう事なのかな?
と、思ったりしました。


相変わらずの妄想癖です。



もすこし追加で歌詞の引用。

 「君の影が揺れている
  今日限り逢える日時計
  何時もの夏がすぐそこにある証
  君の喜ぶものはありあまるほどにある
  すべて君のもの
  笑顔を見せて」




共に、不完全さを笑う。

 なぜか、ふとひらめいた言葉。
共に笑うということは、受け入れるということなのかなと。

ここ2、3日のできごとの中で思うところがあった。

人は不完全な存在だ。
それは人というものの宿命でもある。
宿命ならば、そんなものは笑い飛ばしてしまった方がいい。

もし、自分以外の誰かと一緒にそれができるならば、
それは幸せなことなのだと思う。




的中する生き方がしたい。

 と思ったので、アルボムッレ・スマナサーラさんの「的中する生き方」を読みました。
ちょっと前だけど。
結構面白く読んでいたつもりだが、ほぼ覚えていない!

ということで、ざっくりと前書き抜粋。

 「この本のポイントを、ここで早くも挙げてしまいましょう。頭の悪い人が道徳を嫌がります。頭の悪い人が語る美辞麗句の「道徳」は、実は「非道 徳」です。賢い人なら「道徳」を守ります。「道徳」さえあれば乗り越えられない問題はありません。「道徳」さえあれば苦難や悩みに陥りません。精神的な悩 みとは「道徳がないこと」です。最高にクールな生き方とは、道徳的な生き方です。臆病者、自信がない人、他人がやることを猿真似していれば安心だと思う自 尊心がない人などには、「道徳」は守れません。「道徳」を守る人は勇気のある人、人生を成功に導く人です。勝利者です。リーダーです。われわれが夢みてい る理想的な生き方をあっという間に実現するための最短の方法は「道徳」なのです」

おおおー!!!
良く分からんが、道徳すげー!

ということで、再び途中抜粋。
折り目があって、引っかかったらしい。
「いちばん悪い人は「説教をした人」」ってとこ。

 「自分は守る気がないのに、他人に「道徳を守れ」と説教する人は、どんなことをしていることになるでしょう。「道徳」を「笑いもの」にしている のです。そして、次の世代にも悪影響を与えています。大人が、「道徳」を笑いものにしながら、次の世代に「道徳」を教えようとします。ですからなおさら、 非道徳な社会になって、世界が壊れていきます。
 「道徳を教えるぞ」といって他人に説教する人は、「道徳」を犯す人よりも、社会にダメージを与えます。他人に説教をすると、悪いことをしていることになります。」

な、なるほどー。
他人に守らせようとするのは道徳にならないのか・・・。
で、成功者が語る秘訣は全部「道徳」で、「道徳」がない会社は事件を起こすらしい。

で、またまた飛ぶ。

仏教には十悪ってのがあるらしい。
殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・綺語・麁悪語・瞋恚・貪欲・邪見の十項目。
で、これは最初が最も軽いもので、最後が最も重い罪らしい。
殺生が最も軽く、間違ったものの見方が最も重い。
その重さの順番がどう並んでいるかというと、行動によって犯すもの→言葉によって犯すもの→心によって犯すもの→で、すべての罪の大元になる「邪見」といった順番になっている。
つまり、後の方のもののほうが、波及効果が高いということ。
また少し抜粋すると、

 「人はたとえ身体や言葉で罪を犯しても、時間が経つと忘れることもあります。死ぬ間際になったら思い出せないこともあるでしょう。それなら、 「その程度のこと」ということです。次の生まれに影響を与えることはありません。しかし、「妄想」にふける人にはそのチャンスさえもないのです。「妄想」 は途切れることなく膨らみ、つながり続けます。こころがきれいになる隙がありません。」

結局、おかしな「妄想」こそが苦しみの源で、それがどこから来るのかというと、やっぱり「邪見」からということになる。
では、「邪見」とはなんなのか。
また抜粋する。

 「いったい「邪見」とはどういうことなのでしょうか。文字通り、「間違った見解」です。そういってもすぐに理解するのは難しいでしょう。言い換 えれば、「理性」がないことです。「理性」というのは、「証拠」に基づいてある意見に達することです。そのときの「証拠」は完全ではないかもしれません。 ですから、達した見解について、しがみつくこともしません。まとめますと、理性的な態度とは、「とりあえず、いまある証拠、データに基づくなら、このよう な結論にならざるを得ない」と決めますが、その結論をいつでも訂正できるようにすることです。自分の意見が間違いだとわかったら、その時点でたちまち直す ことです。 」

なるほどー。

でも、正しいと思った解釈、正しいと思った自分を訂正するというのは、非常に難しい。
人間というのは基本的に勘違いや思い込み、事実を捻じ曲げて解釈するというのを自然に行うように出来ているから。
騙し絵に騙されたことがまったくないという人は、少ないだろう。
心理テストでロールシャハテストなんてものがある。
訳の分からない模様を見せて、そこから見えてくるものを問うものだ。
そこで見えてくるものは、個々人のまさに「妄想」であって、その人のものの見方を示すものだ。

私の場合、まず、その個々人の「妄想」や「個性」や「性格」に正誤といったものが当てはめられるのかどうか、ということが分からない。
だだ、そういった個々の中には、社会から疎外されやすい形や、自分で自分を苦しめるような形があるというのも事実なのだと思う。

要は、的中させたいのならば、的中する形になれるよう努めなさい、ということなのだろう。

思いのほか長くなった。
疲れた。
ちゃんと読んで覚えておけば良かった。

とりあえず、「道徳」への道は今の自分には遠いことが分かった。